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諸行無常

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この世の全ては無常である。 なのになぜ人は、自分のもの、自分の会社、自分の土地、自分のお金、自分の友達、自分の国、自分の子ども、自分の、自分の・・・とこだわるのだろう。 人間の歴史が文字などで記録されるようになったのも、たかだか数千年前。 自分のものとして所有できる期間はいったいどのくらいなのか? 千年後も存在しているものなどあるだろうか?日本には、聖徳太子の時代に創業されたという組織が現在も残っているが、創業当時からそこにいる人はいるはずもない。ひとりの人が組織を所有し続けているはずもない。 残っているのは名前と代々受け継いできた技術や思いであろう。それも創業当時と変わっていないということがあるのだろうか。長い年月をかけ研究され、磨かれた技術は進歩し、考え方や思想は、時代の移り変わりと共に新たなものを取り入れ、文化は積み重ねられているのではないだろうか。 ホモ・サピエンスが出現したのが約25万年前。最古の文明が起こったのが7500年前と言われている(諸説ある)。1万年後、10万年後、はたして人類(ホモ・サピエンス)は存在しているのだろうか?恐竜のように、1億6000万年繁栄するのだろうか?            7,500年前 最古の文明        250,000年前 ホモ・サピエンス出現 160,000,000年間 恐竜の時代 自分の、自分の、と私たちが執着しこだわっているものは、原子で構成されているが、常にくっついたり、離れたりを繰り返している。自分の肉体を構成している原子も時間がたてば、別の物体を構成する原子になる。 たまには考えも及ばない遠くのことを考えると何にこんなに執着し、苦しんでいるのかと思う。 すべては無常である。 だからといって、努力する意味はないと、好き勝手なことをし、快楽の限りを尽くしてすごして良いわけはない。 無常は、無情ではない。無感情、無鉄砲、無精になることではない。 しかし、今ここにある苦しみは、現実でありこの場にはっきりとある。己の執着のために自分のみではなく、周囲の人にまで苦しみを与えて良いのだろうか。 理不尽な苦しみに耐えることが修業なのだろうか? 結果、成長したのであればどんな厳しさ、苦しさを与えても良いのだろうか? それが努力、精進なのか? 自分にとって価値があると信じる目標の実現に向け、難しい問題に向き合い、厳しくきつ