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会社と商店街

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 鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長、横田南嶺先生が毎日、管長日記を朝の5時にYoutubeでアップされている。  平日は、子どもの学校の送迎の間に聞いているが、禅にまつわる話だけでなく、さまざまな分野の情報も提供してくださっていて毎朝、大変勉強になる。  2022年7月6日の管長日記で、駒澤大学の小川隆先生の臨済宗の坐禅と曹洞宗の坐禅の違いについて「会社と商店街」に喩えた話しを引用され、その後に、  「曹洞宗は、大会社です。道元禅師の教えを忠実に守っている、実によく統率の取れた組織です。それに対して臨済宗はというと、商店街のようにそれぞれいろんな個性的な商店が並んでいるのです。  あまりにも個性的で統率されたところはありません。それでいて全体が商店街になっているのです。今の臨済宗は、十四もの本山があり、派に分かれています。あまり統一見解のようなものはありません。」  と語られている。  それを聞いて、沖縄の伝統空手界はまさしく商店街だとすごくしっくりきた。  本土で普及発展している空手や他のスポーツは、会社のように組織化され統率が取れている。  それに対して沖縄の伝統空手会は、これが伝統空手だという統一見解はなく、多くの会派に分かれた、個性的なお店が並ぶ商店街である。  しかし、会派や流派を超えて集まってみると本土の空手とは違う独特の風格がある。  沖縄の伝統空手と本土の空手、競技空手との違いはなにか、議論をしてひとつ同一見解を見出そうという試みもあったが、結論にいたったという話を聞いたことはない。  沖縄で世界規模の競技大会がたびたび開催されるが、毎回「あれは、競技空手だ、沖縄の伝統空手ではない」と声が上がる。その基準は、一般の方にはまったく理解されないが、空手界の重鎮や各道場主の基準は、言葉にはし難いが、共通のものがある。    禅では、不立文字という言葉がある。googleで検索すると、日本大百科全書(ニッポニカ)のわかりやすい解説として、「禅宗の立場を表す語の一つで、禅の悟りの内容は文字やことばで伝えられるものでないことをいう。中国の翻訳仏教や学問仏教を批判し、実践仏教を主張した禅宗の特色を示す。教えを心から心に伝える意の教外別伝や以心伝心の語と連結して使用されることが多い。と書かれている。」    まさしく沖縄の空手は、文字や言葉で伝えられるものではなく、心か...

苦しみを取り除く

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 経営は、人々の苦しみを取り除く仕事だと思う。  お客様との関係から見てみると、飲食店であれば、空腹という苦しみを取り除き、病院であれば、病気という苦しみを取り除き、建設業では、安心できない不快な環境という苦しみを取り除くことをしている。  私が、サポートをして取り除きたい苦は、経営者やその会社で働く社員やスタッフの皆様の人間関係の苦である。  例えば、社長がいきあたりばったりの無計画で、思いつきで行動することに振り回されている社員からの苦情を汲み取り、組織として年間計画を作成することで、前もって情報を知ることができ、変更がある場合でも事前に連絡する体制をとることで、「聞いてなかった」、「急に困る」というような、寝耳に水のようなことをなくしていく。  仕事をする上で、当たり前のことだと思うかもしれないが、意外にできていない組織が多い。  2人以上の人があつまれば、組織だと思うが、人数が少ない組織ほど、ナーナーになっている現状がある。  家族経営で、夫婦で仕事をしているところなどは、生活も一緒であるため、自分が考えていることは言ったつもりになり、「今日は、外出するから」と言うと、「聞いてないよ、いつから決まっていたの。今日の〇〇の予定はどうするの?」と口論になることもしばしば。 また、月次の決算ができていない会社も多い。  野球をしているときに、今、何点取っているのか、勝っているのか、負けているのか分からず、試合が終了し、数時間後に結果が出るようなものだ。  働いている人は、自分たちのがんばった成果がどうなっているか分からないまま働かされる苦しみを味わうことになる。 経営者として、自分がやってきたことは大丈夫なのかという不安を抱える方もいる。  経営計画書の作成を通して、経営者自身が目指すビジョンを明文化し、ミッションやパーパースを考え、方針を示すサポートを行っていくと、漠然としていた不安は小さくなっていく。  それとともに、目標を達成するための具体的な行動計画がはっきりし集中すべき対象物が見つかることで、覚悟が高まり、心地よい緊張感に変わっていく。 難儀な仕事でも苦しいと感じるのか、目標達成のためのハードルを超える筋肉痛ととらえるかで大きく違う。  すべての人間は、幸福になることができる。と嫌われる勇気という本にある。  人間の悩みは全て人間関係の悩みである...

手段は、各々にまかせる

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  目的・ビジョン・目標を共有し、手段は各々にまかせる   組織として、行動するためには、目的や目標、ビジョンを共有することから始めなければならない。  しかも、その目的や目標、ビジョンは、個人が実現したいと心から共感できるような者でなければならない。  そのうえで、その実現にむけてそれぞれが役割を果たすことによりその目的・目標・ビジョンは実現される。  しかし、リーダーが、自分の「やり方」に固執するあまり、組織的な行動を阻害している場合がある。  特に、下積みから全ての業務に精通したリーダーにその傾向が強く見られるように感じる。  チームのメンバーが、少しでも違うやり方をしていると  「そうじゃない。この場合は、このやり方だ。」「しょうがない、私がやるからよく見ておくように」と、口を出し、手を出してしまう。  メンバーが、「こういうやり方もありますよね。」と言うと「なにか君は、これまでの私がやってきたことを否定するつもりか。私が何年、この仕事をやってきたと思っているんだ」と、ひとつの作業のことから飛躍した会話になってしまう場合もある。  これは、リーダーとメンバーとのやりとりの一例だが、この問題の重要なポイントは、メンバーの考えややり方を否定したことで、考えることをやめさせ、やる気を失わせることである。  メンバーの意識が、組織としての本来の目的・目標・ビジョンの実現ではなく、リーダーに言われた通りのやり方をすること、指摘を受けないこと、注意されないことに向くことである。  原因は、いくつかあるが、よく見られるのが、リーダー自身が、自分の存在意義の損失感に耐えられないこと。自分がいなくても、仕事が回ることに、「私はいらない人間ではないか」「もう私のやり方は古くて使い物にならないのではないか」と無意識のうちに脅威を感じてしまうことにある。  現実は、周囲のメンバーは誰もそんなことを感じたり、考えたりする事実はなく、むしろ尊敬し、一目おいていることも多い。  だが、結局、リーダーが損失感、孤独感に耐えられず、口を出し、手を出すことで、結局、自分自身の口から「うちのメンバーはダメだ、言われたことしかしない。自分で考えて行動しない」「なぜこのくらいわからないのか!!」という言葉が聞かれるようになる。  そして、メンバーがやるべき仕事がムダに増え、煩雑になり、士気...

継続は力なり

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  私の師匠である、沖縄空手道小林流武徳館協会の初代会長儀武息一先生は、1年間1日も休まず稽古に通ったが、表彰されることもなく、だれにも褒められることもなかった。という経験から、ご自身が道場を持つようになって、皆勤賞を授与されるようになりました。  1年間休まず稽古したことを讃えるという内容の賞状と共に、トロフィーと高級空手着を副賞として授与くださいました。トロフィーは、皆稽古を続けた年数に応じて毎年大きくなるので門下生にはとても魅力的で皆が目指す目標になっていました。私も、8年間連続のあと1年、間が空きましたが、9年の皆勤賞をいただけたことは、自分自身とって何よりの自信になりました。また、9年ともなるとこれ以上大きなトロフィーはないということで、切り子ガラスのワイングラスをいただいたことも大変、楽しくうれしい思い出となっています。  そのトロフィーには、「継続は力なり」という言葉が彫られたプレートが貼り付けられていました。自宅に飾られたトロフィーの「継続は力なり」の文字が、稽古に向かう私の気持ちをいつも奮い立たせてくれました。  我々もその慣習を踏襲し、皆稽古賞を設けました。門下生の目標になれば、日々稽古に励む者を讃えられればと思い表彰していました。10年連続皆稽古を達成した者もおりました。我々の道場では、トロフィーではなく毎年大きくなる盾をプレゼントしていましたが、コロナ禍で中断したままになっています。文化が途切れ寂しい感じもしましたが、武道としての本質を考えず皆稽古賞を取ることが目的になってしまう門下生もいたため、皆稽古賞の意義を見直すよい機会になったと思います。  でも、「継続は力なり」「継続こそが力なり」ではないでしょうか。もちろんただ、続けているだけではダメで、日々行う基本の稽古であってもどの指に力をいれるか、背中を意識するか、体の前面を意識するかなどなにかしら工夫をしながら継続する必要があります。  その工夫をしながら継続し、積み重ねたものは、絶大な力となります。才能やセンスがある者は、ある程度なら何事も器用にこなすこともあると思いますが、長い年月をかけて、工夫に工夫を重ねて身につけたコツなどは、誰も太刀打ちすることはできません。ましてや、10年20年、30年の単位になるとなおさらです。  なにかを始めた頃は、同じ年齢や近い年齢の者が多く、競争率も高く...