無条件に徹底する
その話の中で、講談社学術文庫『夢中問答』にある文書を川瀬一馬先生が現代語訳されたものを引用されていました。
「問。自分自身がもし煩悩から離脱しなければ、他人を悟りに導くこともできない。それなのに自身をさしおいて、先ず第一に衆生のために善根を修めるというのは、理屈が通らないのではないか。
答。 衆生が生死の迷いに沈んでいるのは、我が身にとらわれて、自分のために名利を求めて、種々の罪業を作るからだ。
それ故に、ただ自分の身を忘れて、衆生を益する心を発せば、大慈悲が心のうちにきざして、仏心と暗々に出会うために、自身のためにと言って善根を修めなくとも、限りない善根が自然によくそなわり、自身のために仏道を求めないけれども、仏道は速やかに成就する。それに反して、自身のためばかりに俗を離れようと願う者は、狭い小乗の心がけであるから、たとい無量の善根を修めたとしても、自分自身の成仏さえもかなわない」
そして次に三種の慈悲について同じ文献から引用されています。
「慈悲に三種ある。
一つには衆生縁の慈悲。二つには法縁の慈悲。三つには無縁の慈悲である。
衆生縁の慈悲と言うのは、眼前に生死の苦に迷っている衆生がいるのを見て、これを導いて世俗の煩悩から離脱させようとする慈悲で、これは小乗の菩薩の程度の慈悲である。
自身ばかり離脱を求める声聞・縁覚二乗の考えにはまさってはいるが、まだ世間の迷いの世界を断ち切れない考え方に陥っていて、他に功徳を及ぼそうとする相を残しているが故に、真実の慈悲ではない。
「維摩経」の中に、眼前の姿に心を引かれる大悲だとそしっているのは、これである。
自身ばかり離脱を求める声聞・縁覚二乗の考えにはまさってはいるが、まだ世間の迷いの世界を断ち切れない考え方に陥っていて、他に功徳を及ぼそうとする相を残しているが故に、真実の慈悲ではない。
「維摩経」の中に、眼前の姿に心を引かれる大悲だとそしっているのは、これである。
法縁の慈悲と言うのは、因縁によって生じたありとあらゆるものは、有情非情すべて皆、幻に現われたものと同じだと見通して、幻のごとき一切の無実を救おうとの大悲を発し、如幻の教えを説いて、如幻の衆生を救い導く。
これがすなわち、大乗の立場にある菩薩の慈悲である。
しかしながら、かような慈悲は、目の前にある姿に捉われる心から離れて、眼前の姿に心を引かれた大悲とは異なっているが、なおも如幻の相を残しているが故に、これもまた真実の慈悲とは言えない。
これがすなわち、大乗の立場にある菩薩の慈悲である。
しかしながら、かような慈悲は、目の前にある姿に捉われる心から離れて、眼前の姿に心を引かれた大悲とは異なっているが、なおも如幻の相を残しているが故に、これもまた真実の慈悲とは言えない。
無縁の慈悲と言うのは、悟りを得て後、もともと見えている本性のよき働きの慈悲が現われて、教化しようという心を発さなくて自然に衆生を導くこと、あたかも月がどこの水にも影をうつすがごとくである。
この故に、仏法を説くのに、口に出すとか出さぬとかという違いもなく、人を悟りに導くのに役に立つとか立たぬとかの区別もない。かように無条件に徹底しているのを真実の慈悲と言うのだ。」
※如幻とは、仏語。幻のようにはかないこと。無常のたとえ。(コトバンク)
いつも、教えてやろう、教化してやろう、他人を変えてやろうという気持ちが自分自身にあることに気づかせてくれるとてもありがたい教えだと思いました。
コメント
コメントを投稿