武術を必要としない時代に、武道の存在意義を考える

倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になる

 令和4年7月15日発行の合氣道探究、第64号(出版芸術社)に沖縄合気会会主・沖縄合気道連盟理事長の山口巌七段の記事が載っている。

 その文章の一部に「武道の意味は、すべては人作り。そして自然体を求めることです。合気道を探求すればするほど、愛と結びと和の自然の理想を、啓発し気づくことができます。それが稽古であり修行です。戦い、争い、対立のために、人が武器となることを目的としてはいけない。今の時代に適切な人作りは何か。武器を持ってはいけない、使ってはいけない、争ってはいけないという、それこそ人の道です。平和であり、調和であり、和解のできる人作りでなければなりません。合気道は和の表現であり、また修行道です。」とある。

 また、「倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になる。これを修行というのです。」ともある。

 格闘技の世界に足を踏み入れる人たちは、腕力的な強さを求めていることが多いように思われる。己の身を厳しく鍛え、苦行することで、弱い自分に打ち勝ち、自己肯定感を高めたいと考え練習に打ち込むが、だんだん体が強くなり、技を覚えていくと、誰かと戦って勝ちたくなる。

 はじめは自分に勝つことが目的だったものが、人に勝つことが目的になる。そうなると修羅の世界から抜け出せなくなる人もいる。勝負に勝てなければ、自己肯定感を得られない。勝てば自信がつき、人生も幸せになると考えるようになる人もいる。

 会社を経営する立場にある人でも、はじめは、生活するため、目の前のお客様のためという思いだったものが、利益が出るにつれ、もっともっと業績を伸ばさなければならないという思いに縛られ、執着となり、業績は良いがはたから見ると幸せそうに見えず、むしろ苦しそうに見える人もいる。

 他の人に勝たなければ、よその企業よりも利益を上げて成長しなければという執着が原因となり苦しみを生み出しているのではないか。

 また、経営者としての成功には、家庭の犠牲がつきものだという固定観念をもっている人もいるように感じる。

 倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になるという言葉の意味を深く考え、日々を修行としたい。



人が武器となることを目的としてはいけない

 また、空手をはじめとする武術は、この身を武器にすることを目的とした武術として発生し、その技術を発展させてきた。しかし、今の時代、特に日本では、人を倒すという本質のみを追求する武術は存在する必要性や価値はほとんどなく、マーケティング的に考えれば、人を倒す技術に顧客が求める価値はほとんどないと思われる。

 しかし、空手道場へ、「子どもを通わせたいのだが」という親からの問い合わせは途切れることはない。

 彼らが求めるものは、あいさつを大きな声でできるようになってほしい、気をつけをできるようになってほしい、人の話を聞けるようになってほしい、自信をつけてほしいなど人格の形成、人間性の向上にかかわることがほとんどである。

 それこそ人の道、和解のできる人作りを望んでいるのではないのか。

 私たち、武道の指導者は、現代では必要とされないこの身を武器にする武術を通して、どのように人作りをしていくのか、その道を求め続けることが大切ではないかとあらためて、襟を正さねばと想った。

 

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