修行の道は変わらない



先日、沖縄で、第3回沖縄空手少年少女世界大会が開催されました。

私の道場の門下生も13名が、1月の県内予選を経て、本戦に出場しました。


大会当日まで、30℃を超える真夏日が続き、道場内が33℃を越える日もありましたが、出場する門下生の皆さんは、思うように体が動かない日も、自分の未熟さと弱さに向き合いながら、日々稽古を重ねてきました。


結果は、本人たちが思ったようにはいきませんでしたが、全員が努力し、積み重ねた技を心を整え十分に発揮することができたようです。


私は、審判をしていたので、直接、間近で門下生の演武を見ることができたのは、2名ほどですが、監督についてくれた、大学生、高校生、中学生の門下生から、「みんな、全力を出し切って、素晴らしい演武だった」と報告がありました。


もともと、ルールのないところで身を守るために発生する武術をルールの中に押し込めて、直接手を合わせることなく、型の演武のみで、点数をつけ、勝敗を決めようというのですから、公平な判定を行うことが大変難しいものとなっています。


誰が一番強いかの証明は、ルール無用の生き残りをかけた、バトルロワイヤルで行うしかないと、なにかの漫画で読み、なるほどと思った記憶があります。


そこまでして、1番を証明する必要などあるのか?という問いかけだったと思います。


型の大会では、自分自身で採点をしていても、勝敗についてこれで良いのかという疑問が湧く場面にしばしば出会うことがあります。


その度に、自分自身に空手とはなにか、武道とはなにか、我々、太悟道場はどこを目指すのかと問い直す機会にしています。


今回改めて確認できたこととしては、

1.太悟道場は修行場であること

2.武道とは、武術の稽古を通して、人としてよりよく生きる道を学び、身につけること

です。


1.太悟道場は修行の


私たち、太悟道場では、空手の稽古をもちろん行なっていますが、戦うための技術である武術の習得を最終目的としているわけではありません。


太悟道場は、ただの空手道場ではなく、修行の道場だと考えています。


修行という言葉を聞くと、多くの人は「厳しいことを我慢すること」「つらいことに耐えること」を思い浮かべるかもしれません。


そういう場面は多くありますが、大切なのはそこではありません。


「では、修行とは」と問われると、でてくる私の一つの答えは、智慧を身につけ、自分や他人を苦しみから救い出すことです。


修行は、悟りへの道だとも思っていますが、悟りなどは、言葉で定義するのが難しく、「ああ、これだ」と気づいたり、体得、体感、実感するもので、言葉で定義したと途端に、違うものになっている、誤解を生む原因になると感じていますが、それでも人に伝えるためには、言語にしてみるしかないので、言語化に挑戦してみたいと思います。


まず、「苦しい」について考えてみると、「苦しい」は、理不尽と感じる出来事に対して起こる心の状態だと思います。


「きつい」は、鍛錬などを行なっている時に肉体的に感じていること

「厳しい」は、目標を持って進んでいるときにあらわれる不都合な状況などに使われる気がします。または、自分自身の予想を大きく上回るようなときにも、使っている気がします。


「苦しい」はそれを生み出す、自分の意思に関係なく否応なしに降ってくる理不尽な出来事があり、そのときに、希望が持てなくなる状態だと思います。


「きつい」「厳しい」状況は、それを抜けるとその前よりもよりより状況になる可能性を含んでいるように私は、感じています。


腰を低く落としたまま、5分間立つという鍛錬を行うことがありますが、その時に門下生に、「きついか」と聞くと「はい」と元気よく返事が帰ってきて、「苦しいか」と聞くと「?」という反応が返ってきたことを思い出します。


「智慧」の一つは、目の前に起こる出来事を理不尽と取るのか、不都合と取るのかは、自分が決めていることを知ることだと思います。


人生で起きる思い通りにならないことはたくさんあります。


試合に勝ちたいのに負ける

一生懸命に努力したのに評価されない

信じていた人に裏切られる

大切な人と別れなければならない

いなな人と会わなければならない

したくないことを強制される


それらを、「こうあるべきだ」「なせ自分だけ」と理不尽と受け止めると苦しみになります。


天気が悪い、渋滞に巻き込まれるなどは、自分にとって不都合なだけで、理不尽ではありません。


少しづつ、不都合と理不尽の違いを見極められるようになり、出来事への自分の受け止め方の癖を知ることなど、言葉では伝えられないことを体験から体得していくことが、修行の一つだと思います。


2.武道とは、武術の稽古を通して、人としてよりよく生きる道を学び、身につけること


また、不都合は受け入れ、理不尽な状況に対しては、環境の改善に挑戦する勇気を持つことは、よりよく生きる道の一つではないでしょうか。


武道とは、武術の稽古を通して、人としてよりよく生きる道を学び、身につけることだと私は考えます。


勝ち負けを超え、承認欲求に縛られることなく、世のため、人のために倦まず、弛まず、己を磨き続けることが、武の道だと思います。


段位の基準について議論をしている際、武道なのだから、武術としての技術は低くても、人間性が良く社会人としてそれなりの地位を得て活躍していれば、段位を与えても良いのではないかという議題が出たことがあります。


その時は、一致した結論が出ませんでしたが、後日、一人になって考えてみるとその考え方こそ、本質を理解しない人間性の低さになるのではないか?と思いました。


武道は、人格さえ磨けば良いというものではないと私は思います。

人格の形成は、素晴らしい人物に会い、読書をし、ボランティア活動に参加し、社会奉仕を行なうなど良い環境に身を置くことで、磨かれていきますが、武道は、武という言葉がついています。

武とは武術のことです。いかに効率よく相手を制するかというのが武の本質だと、私は察します。


どうすれば、最も無駄なく力を伝えられるのか

どうすれば、体格差や筋力差を超えて相手を制することができるのか。

人間の身体はどのように使うことが最も合理的なのか。

その答えを追究し続けていくのが武術だと思います。


「これくらいでいい」という考えではなく、より合理的で、より自然で、より無駄のない身体の使い方を妥協することなく追究し続けることから人格を磨くのが武道であると考えます。


また、最近では、沖縄の空手は、平和の武というキャッチコピーでPRされています。どう意図、しっかり調べたことはありませんが、私は、武術のレベルが高いと抑止力が働き、争いに発展しない。平和が保たれると考えています。正義なき力は悪であり、力なき正義もまた悪である。というアニメのセリフがあった記憶があります。


正義を振りかざし、正義と正義がぶつかることから戦争が始まると思いますが、良い心を持っていても、力で押し切られればなす術がありません。多勢に無勢という言葉もあります。武力が抑止力になり、平和が続くというのもまた真理だと思います。


沖縄の空手は、平和の武。正義と正義がぶつかることから戦争が始まるということを考える時に、いつも疑問に思うのは、伝統の名のもとに、自分の道場の正統性を主張し合い、伝統空手ではないもの減点対象としながら、型の競技大会を行うことは、戦争をしているのと同じ心理状態ではないかということです。


競技空手と伝統空手の違いについて考えてみると、この論争は、沖縄の空手界では結論が出ないまま、今でも続いていますが、物事をはっきりさせないという沖縄の文化も多分に影響していると思います。


脱線しますが、沖縄の物事をはっきりさせない、多様性をそのまま受け入れるというチャンプルー文化、お国柄が、沖縄の空手を、世界中に広げ、こんなにも多くの人に愛好されるようになったのではと私は思っています。


さて、競技空手とは、私、個人の意見としては、競技大会に勝つことを目的として、審判うけを良くするために型を変える。基本や鍛錬など日々の稽古内容も大会用に変えるなどを行うことが、競技空手ではないかと考えています。先人たちが武樹として研鑽したエッセンスを凝縮したものが型だと思うのですか・・・。


また、武道を行うものとしては、審判をする際に、もし、門下生が選手として出場し、不公平な判定を与えられても、自分自身は、地位や名誉や利益に目が眩み判断基準を見失ったり、自分の好き嫌いで物事を判断したりすることなく、どちらが武術としてより優れた体の使い方、効率の良い技なのかを客観的に評価できる人間でありたいと思っています。また、プラスαで、立ち居振る舞いから、滲み出るその人の人柄、人間性、精神性を感じ取れる人間でありたいとも思います。


また、人としてより良く生きる道、智慧として、二元論を離れること、承認欲求を捨てることも大事だと思います。


人間は砂浜に、指で線を引くとついついあなたはこちら側かあっち側かと分けたがる習性があるそうです。線を引く前を常に思い出し、人を捌くことなくあるがまま受け入れるようになりたいものです。


それから、人間の苦しみを生む原因の一つに、承認欲求が満たされないことがあります。承認欲求は、比較する相手や評価してくれる方が必要になりますが、自分の都合よく、自分よりも劣った人や自分のことを高く評価してくれる人に出会うことはできません。苦しみを生まないためには、承認欲求を捨てることも修行のうちだと思います。


大会という経験を通して、今回も、太悟道場は修行場であること。武道とは、武術の稽古を通して、人としてよりよく生きる道を学び、身につけること。の深掘りをすることができました。


取り留めなく、かなりの長文となりましたが、今後も、目の前の地位や名誉や利益に左右されることなく、修行の道を歩んでいきたいと思いました。

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