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手段は、各々にまかせる

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  目的・ビジョン・目標を共有し、手段は各々にまかせる   組織として、行動するためには、目的や目標、ビジョンを共有することから始めなければならない。  しかも、その目的や目標、ビジョンは、個人が実現したいと心から共感できるような者でなければならない。  そのうえで、その実現にむけてそれぞれが役割を果たすことによりその目的・目標・ビジョンは実現される。  しかし、リーダーが、自分の「やり方」に固執するあまり、組織的な行動を阻害している場合がある。  特に、下積みから全ての業務に精通したリーダーにその傾向が強く見られるように感じる。  チームのメンバーが、少しでも違うやり方をしていると  「そうじゃない。この場合は、このやり方だ。」「しょうがない、私がやるからよく見ておくように」と、口を出し、手を出してしまう。  メンバーが、「こういうやり方もありますよね。」と言うと「なにか君は、これまでの私がやってきたことを否定するつもりか。私が何年、この仕事をやってきたと思っているんだ」と、ひとつの作業のことから飛躍した会話になってしまう場合もある。  これは、リーダーとメンバーとのやりとりの一例だが、この問題の重要なポイントは、メンバーの考えややり方を否定したことで、考えることをやめさせ、やる気を失わせることである。  メンバーの意識が、組織としての本来の目的・目標・ビジョンの実現ではなく、リーダーに言われた通りのやり方をすること、指摘を受けないこと、注意されないことに向くことである。  原因は、いくつかあるが、よく見られるのが、リーダー自身が、自分の存在意義の損失感に耐えられないこと。自分がいなくても、仕事が回ることに、「私はいらない人間ではないか」「もう私のやり方は古くて使い物にならないのではないか」と無意識のうちに脅威を感じてしまうことにある。  現実は、周囲のメンバーは誰もそんなことを感じたり、考えたりする事実はなく、むしろ尊敬し、一目おいていることも多い。  だが、結局、リーダーが損失感、孤独感に耐えられず、口を出し、手を出すことで、結局、自分自身の口から「うちのメンバーはダメだ、言われたことしかしない。自分で考えて行動しない」「なぜこのくらいわからないのか!!」という言葉が聞かれるようになる。  そして、メンバーがやるべき仕事がムダに増え、煩雑になり、士気...

継続は力なり

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  私の師匠である、沖縄空手道小林流武徳館協会の初代会長儀武息一先生は、1年間1日も休まず稽古に通ったが、表彰されることもなく、だれにも褒められることもなかった。という経験から、ご自身が道場を持つようになって、皆勤賞を授与されるようになりました。  1年間休まず稽古したことを讃えるという内容の賞状と共に、トロフィーと高級空手着を副賞として授与くださいました。トロフィーは、皆稽古を続けた年数に応じて毎年大きくなるので門下生にはとても魅力的で皆が目指す目標になっていました。私も、8年間連続のあと1年、間が空きましたが、9年の皆勤賞をいただけたことは、自分自身とって何よりの自信になりました。また、9年ともなるとこれ以上大きなトロフィーはないということで、切り子ガラスのワイングラスをいただいたことも大変、楽しくうれしい思い出となっています。  そのトロフィーには、「継続は力なり」という言葉が彫られたプレートが貼り付けられていました。自宅に飾られたトロフィーの「継続は力なり」の文字が、稽古に向かう私の気持ちをいつも奮い立たせてくれました。  我々もその慣習を踏襲し、皆稽古賞を設けました。門下生の目標になれば、日々稽古に励む者を讃えられればと思い表彰していました。10年連続皆稽古を達成した者もおりました。我々の道場では、トロフィーではなく毎年大きくなる盾をプレゼントしていましたが、コロナ禍で中断したままになっています。文化が途切れ寂しい感じもしましたが、武道としての本質を考えず皆稽古賞を取ることが目的になってしまう門下生もいたため、皆稽古賞の意義を見直すよい機会になったと思います。  でも、「継続は力なり」「継続こそが力なり」ではないでしょうか。もちろんただ、続けているだけではダメで、日々行う基本の稽古であってもどの指に力をいれるか、背中を意識するか、体の前面を意識するかなどなにかしら工夫をしながら継続する必要があります。  その工夫をしながら継続し、積み重ねたものは、絶大な力となります。才能やセンスがある者は、ある程度なら何事も器用にこなすこともあると思いますが、長い年月をかけて、工夫に工夫を重ねて身につけたコツなどは、誰も太刀打ちすることはできません。ましてや、10年20年、30年の単位になるとなおさらです。  なにかを始めた頃は、同じ年齢や近い年齢の者が多く、競争率も高く...

諸行無常

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この世の全ては無常である。 なのになぜ人は、自分のもの、自分の会社、自分の土地、自分のお金、自分の友達、自分の国、自分の子ども、自分の、自分の・・・とこだわるのだろう。 人間の歴史が文字などで記録されるようになったのも、たかだか数千年前。 自分のものとして所有できる期間はいったいどのくらいなのか? 千年後も存在しているものなどあるだろうか?日本には、聖徳太子の時代に創業されたという組織が現在も残っているが、創業当時からそこにいる人はいるはずもない。ひとりの人が組織を所有し続けているはずもない。 残っているのは名前と代々受け継いできた技術や思いであろう。それも創業当時と変わっていないということがあるのだろうか。長い年月をかけ研究され、磨かれた技術は進歩し、考え方や思想は、時代の移り変わりと共に新たなものを取り入れ、文化は積み重ねられているのではないだろうか。 ホモ・サピエンスが出現したのが約25万年前。最古の文明が起こったのが7500年前と言われている(諸説ある)。1万年後、10万年後、はたして人類(ホモ・サピエンス)は存在しているのだろうか?恐竜のように、1億6000万年繁栄するのだろうか?            7,500年前 最古の文明        250,000年前 ホモ・サピエンス出現 160,000,000年間 恐竜の時代 自分の、自分の、と私たちが執着しこだわっているものは、原子で構成されているが、常にくっついたり、離れたりを繰り返している。自分の肉体を構成している原子も時間がたてば、別の物体を構成する原子になる。 たまには考えも及ばない遠くのことを考えると何にこんなに執着し、苦しんでいるのかと思う。 すべては無常である。 だからといって、努力する意味はないと、好き勝手なことをし、快楽の限りを尽くしてすごして良いわけはない。 無常は、無情ではない。無感情、無鉄砲、無精になることではない。 しかし、今ここにある苦しみは、現実でありこの場にはっきりとある。己の執着のために自分のみではなく、周囲の人にまで苦しみを与えて良いのだろうか。 理不尽な苦しみに耐えることが修業なのだろうか? 結果、成長したのであればどんな厳しさ、苦しさを与えても良いのだろうか? それが努...

武術を必要としない時代に、武道の存在意義を考える

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倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になる  令和4年7月15日発行の合氣道探究、第64号(出版芸術社)に沖縄合気会会主・沖縄合気道連盟理事長の山口巌七段の記事が載っている。  その文章の一部に「 武道の意味は、すべては人作り。そして自然体を求めることです。合気道を探求すればするほど、愛と結びと和の自然の理想を、啓発し気づくことができます。それが稽古であり修行です。 戦い、争い、対立のために、人が武器となることを目的としてはいけない。今の時代に適切な人作りは何か。武器を持ってはいけない、使ってはいけない、争ってはいけないという、それこそ人の道です。平和であり、調和であり、和解のできる人作りでなければなりません。合気道は和の表現であり、また修行道です。」とある。  また、「倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になる。これを修行というのです。」ともある。  格闘技の世界に足を踏み入れる人たちは、腕力的な強さを求めていることが多いように思われる。己の身を厳しく鍛え、苦行することで、弱い自分に打ち勝ち、自己肯定感を高めたいと考え練習に打ち込むが、だんだん体が強くなり、技を覚えていくと、誰かと戦って勝ちたくなる。  はじめは自分に勝つことが目的だったものが、人に勝つことが目的になる。そうなると修羅の世界から抜け出せなくなる人もいる。勝負に勝てなければ、自己肯定感を得られない。勝てば自信がつき、人生も幸せになると考えるようになる人もいる。  会社を経営する立場にある人でも、はじめは、生活するため、目の前のお客様のためという思いだったものが、利益が出るにつれ、もっともっと業績を伸ばさなければならないという思いに縛られ、執着となり、業績は良いがはたから見ると幸せそうに見えず、むしろ苦しそうに見える人もいる。  他の人に勝たなければ、よその企業よりも利益を上げて成長しなければという執着が原因となり苦しみを生み出しているのではないか。  また、経営者としての成功には、家庭の犠牲がつきものだという固定観念をもっている人もいるように感じる。  倒そうと思う人間が、倒そうと思わない人間になるという言葉の意味を深く考え、日々を修行としたい。 人が武器となることを目的としてはいけない  また、空手をはじめとする武術は、この身を武器にすることを目的とした武術として発生し、その技術を発展させ...

経営と琉球武道③

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  国立博物館所蔵の刀 武術と武道の違い  中国武術を学び、私が倒された技がどんなものであるかを少しづつ理解していった。そして、その技を身に着けられるよう日々、稽古を重ねるにつれて、強さとは、ただ戦う技術のみを向上させることなのか、という前々から思っていた疑問がより一層つよくなってきた。武術と武道は違うものなのだろうか、違うのであればそれを体で感じてみたいと思うようになった。  そうすると、ご縁が舞い込んできた。合気道の先生を紹介されたのである。  合気道の技に触れてみると、倒される時の感覚は、私が学んだ中国武術の技ととても近いように私には感じられた。しかし、技をかけていただいたそのあと「この技ができたとして、それがあなたの人生にどう関係があるのか、この技ができることに、どんな意味があるのか」というような質問をされたと記憶している。その一言が、「ああ!!」と私の心にとても響いた。なんとも言葉では言い表せないが「そうだよな」と、深くその質問が胸に刺さった。 人として大切な道を学ぶ  その後、空手道場を開設する上で、空手とはなにか、武術と武道の違いとはなにかを門下生に伝えるために、言葉にしなくてはならないと思い、自分なりに考え抜いた末に辿り着いた答えは、「空手とは、武道である。武道とは、武術を通し、人して大切な道を学ぶこと。武術とは、効率よく相手を制する技である。」  道場を開設して、22年。このことは道場を経営する上での、パーパス、存在意義であると日を追うごとに、より一層、強く感じられる。

経営と琉球武道②

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自立して生きるにはどうするか  学生の時分は、興味のあるものに一生懸命打ち込むだけでも許される部分もあるが、いよいよ社会に出て、自立して生きていかなければならない時期が人間には訪れる。  22〜23歳の頃、私も例外なくその問題と向き合わなければならなくなった。教育で社会に貢献したい。教育こそが沖縄をもっと良くするために一番大切なことだ、という情熱と使命感は持っていた。  これまで、空手を通して多くの人たちと関わった中で、目標があってもなくても日々努力を重ねること、成長のための苦難を耐え忍ぶ力、ここぞという時に踏ん張る根性など人として大切なことを伝えることがこれからより必要ではないかと考えていた。  しかし、大学の実習で学校などの組織では難しいと感じた。そこで、空手を手段として人として大切なことを伝えてみようと思ったが、それで生活できるのかという不安は大きかった。  その時に決断のヒントになったのが、「周囲が必要としていることをしていれば、食うには困らない」という言葉であった。祖母の言葉だと記憶しているが定かではない。 必要とされることをしていれば、食うには困らない  「とりあえずやってみよう、もし必要とされれば、生活できるだろうし、必要とされなければまた別の道に行けば良い」と思い切って、銀行から借り入れをし、友人たちの力を借りて道場を開設した。  実際、道場をオープンしてみると、24歳という若い指導者の一生懸命な姿を応援する保護者や、「子ども達の元気な声を毎日楽しみに前をとおっているよ」という近所の高齢者の方々から、たくさんの差し入れをいただき、本当に食うには困らないという体験をすることができた。  のちに経営について学ぶようになり、マーケットインやパーパス経営、ミッション経営などを知ったが、結果、生活できたからこそ良かったが、振り返ってみると経営の基本も知らない若造が勢いで良くできたものだと我ながら感心する。

経営と琉球武道①

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どうすれば自分よりも大きな相手を倒せるのか  私は、9歳のころ、近所にある沖縄伝統空手の道場に通い始めた。伝統の型を中心に日々の稽古は行なっていたが、中学生、高校生の頃は、フルコンタクト空手の大会にも積極的に出場し、上位に入賞することもあった。一時期、高校の空手部にも所属し、全日本空手道連盟形式のインターハイを目指す空手にも触れたが、私の好む空手は、やはり町道場で稽古する空手だということに気づくことができた。  また、好んで読んでいた漫画やアニメ、テレビ番組などの影響もあって、宗教心や哲学、心理学にも興味をもっていた。何歳のころか明確にはわからないが、「宇宙は無から生まれたというが、宇宙の果てまで行ける宇宙船に乗って、宇宙の果てまで行くと無に到達するのだろうか、その時、この体は存在できるのだろうか」と考えるたびに大きな不安と恐怖を感じていた。今思えば、死への恐怖というものを感じていたのかもしれない。  18・19歳の頃、筋力、腕力などの体力のみに頼る空手の限界を感じた。フルコンタクトルールでは、168cm、65kgの体格で、170cm、70kg以上の人と試合をすることはとても大変だと感じるようになっていた。しかし「本などで紹介される武術の達人は、年をとっても相撲取りをとって投げたりするのに、なぜ、今の自分は自分よりも体の大きな相手に全く太刀打ちできないのだろう。」という疑問を持ったのである。 自分がどれだけ頑張ったかは重要ではない。結果が全て!!  そのころ、「拳児」という漫画の影響もあり、中国武術に興味を持つようになった。幸運にも、同じ市内に本場、中国で修行をされた先生が武術館を持っているという紹介をいただき、中国武術に触れることができた。  その時の体験は、これまでの武術にたいする価値観や考え方がひっくり返る自分自身にとってのパラダイムシフトになった。多くの学びや気づきがあったが、一例をあげると「自分の筋肉に力が入っているだけで自己満足になっていないか。相手が倒れるという結果があって武術の技と言える」というようなものである。その時、これまでの自分の稽古は自己満足な稽古だったのだと愕然としたのと同時にこのことに気づけたことに感動したことを覚えている。それからは、どれだけきつい稽古をしてもいくら自分が頑張ったと思っていても、結果がでていなければ意味がないのだと考える...